恋愛リアリティショーとデスゲームを掛け合わせた新作ADV『Kiss or Kill』の情報公開に対して、SNSでは「設定として面白そう」という反応と、「公開処刑という言い回しがしんどい」「恋愛や人気競争を残酷さの演出に使うのがきつい」という反応が並びました。
こうした議論は、単にゲームの好みの話では終わりません。いまの推し活やアイドル文化では、恋愛・選抜・人気・脱落・晒し上げといった言葉に、現実のファン体験が強く結びついているからです。今回の論点は、「フィクションだから自由」で片づけられないモヤモヤの中身を、少し整理してみることにあります。
『Kiss or Kill』をめぐる違和感は、作品単体より“連想される現実”に向いている
今回話題になったのは、恋愛リアリティショーとデスゲームを組み合わせたアドベンチャー作品で、好感度にあたる数値が一定以下になると“公開処刑”される、という強い設定です。刺激的な企画として興味を持つ人がいる一方で、SNSではこの言葉の選び方や、恋愛・人気競争を残酷な見せ物として扱う構図に引っかかる人も少なくありませんでした。
ここで大事なのは、不快感の理由が「暴力表現があるから」だけではないことです。推し活をしている人にとって、好感度、人気、選別、落選、脱落、公開の場での評価という要素は、フィクションの記号ではなく、日常的に触れている感情そのものです。だからこそ、作品の設定を見た瞬間に、オーディション番組、恋愛コンテンツ、アイドルの人気競争、SNSでの晒しや断罪文化までが一気に連想されます。
つまり論点は、「この作品が残酷かどうか」だけでなく、「いまのファン文化の地続きに見えてしまうこと」にあります。現実で十分しんどい構図を、さらに娯楽として増幅して見せられることに、疲れや拒否感を覚える人がいるのです。
問題視されやすいのは、暴力そのものよりも、「好かれる/選ばれる/落とされる」という推し活的な競争の感覚が、処罰や見せ物と結びついている点です。
なぜ推し活をしている人ほど、この種の設定に強く反応しやすいのか
推し活は楽しいものですが、同時に「比べられること」への緊張も抱えています。誰が前に出るか、誰が話題になるか、誰に仕事が来るか、誰が選抜されるか。ファンは直接その競争を作っていないつもりでも、再生数、売上、投票、SNSの盛り上がりなどを通じて、常に順位づけの空気に触れています。
そのため、恋愛リアリティショーやサバイバル企画の文法に、デスゲーム的な罰や公開性が加わると、単なるフィクション以上の生々しさが生まれます。「好かれなければ消える」「盛り上がらなければ切られる」「見世物として裁かれる」という構図は、誇張された表現であっても、現実の推し活の不安を刺激しやすいのです。
特に最近は、コンテンツの楽しみ方そのものが“参加型”になっています。視聴者やファンが評価し、拡散し、反応し、時には叩く。そうした環境では、公開の場で誰かが値踏みされる演出に対し、「これ、現実でもう見ている」と感じる人が出てきます。だから不快感は、繊細すぎる反応ではなく、むしろ現在の文化に敏感だからこそ起きる反応とも言えます。
一方で「フィクションにそこまで現実を重ねるべきか」という反論もある
もちろん、すべてを現実の延長として読む必要はない、という立場もあります。ゲームや物語は極端な設定だからこそ面白い、恋愛リアリティショーやデスゲームの文法はすでに定着したジャンルであり、そこに倫理的な潔癖さを求めすぎると創作の幅が狭まる、という意見です。
この見方にも一定の筋はあります。実際、刺激の強い設定がただちに現実の暴力や差別を肯定するとは限りませんし、作品の全体像がまだ見えていない段階で断罪するのは早い、という慎重さも必要です。「設定が強い」ことと「作品が浅い」ことは同じではありません。
ただし、この反論が有効であるためには、違和感を示した人を「表現規制したい人」「フィクションを理解できない人」と雑にまとめないことが前提になります。多くの人が言っているのは、禁止してほしいというより、「なぜ今この組み合わせがしんどく見えるのか」を言語化したい、ということだからです。
「面白そう」と感じる人と「きつい」と感じる人は、作品への感受性が違うだけでなく、日頃どんな現場やSNS空間に身を置いているかも違います。反応の差は、倫理観の優劣というより、接続している現実の違いから生まれます。
本当の論点は“表現の自由”より、“どんな感情を娯楽化するか”にある
この話を「表現の自由か、不謹慎か」の二択にすると、議論はかなり雑になります。より考えたいのは、現代のエンタメが、どんな感情をどんな形で娯楽化しているかです。
恋愛、承認欲求、競争、脱落、不人気への恐怖、公開の羞恥。これらはすでに多くの人が現実で消耗している感情でもあります。そこへさらに“公開処刑”のような強い演出を重ねると、スリルとして楽しめる人もいれば、現実の傷に触られるように感じる人もいます。
ここで重要なのは、後者の感覚を「被害者ぶっている」と片づけないことです。推し活の世界では、自分の推しが数字で比べられる、ファン同士が熱量を競わされる、SNSで言葉尻を取られて公開で裁かれる、といった場面が珍しくありません。その文脈の中では、“公開処刑”という語感や設定に反発が起きるのは自然です。
そしてもう一つ見逃せないのは、こうした企画が“わかりやすく強い”からこそ注目を集めやすいことです。過激な言葉、残酷な設定、感情を揺さぶる構図は拡散されやすい。一方で、その強さに疲れる人は静かに離れていくことが多く、SNSでは見えにくいままになります。だからこそ、話題性の大きさだけで「受け入れられている」と判断しない視点が必要です。
モヤモヤしたとき、読者はどう受け止めればいいのか
まず確認したいのは、「自分はこういう演出が苦手だ」と感じること自体を、狭量さとして責めなくていいということです。推し活をしていると、楽しめない自分が面倒なのでは、と感じてしまうことがありますが、違和感はその人の経験や記憶に根ざした反応です。無理に飲み込む必要はありません。
同時に、その不快感を根拠に、作品を楽しみにしている人や制作者を即座に断罪するのも別の話です。自分の境界線を守ることと、相手を悪人化することは同じではありません。合わない作品から距離を取る、言葉の何に引っかかったのかを整理する、似た感覚の人の意見を読む、といった行動のほうが、感情を消耗させにくいはずです。
「この作品が悪い」と決める前に、自分はどの要素に反応したのかを分けてみると整理しやすくなります。暴力表現そのものが苦手なのか、恋愛の値踏みがつらいのか、公開で裁かれる構図がしんどいのか。反応点が見えると、感情を言語化しやすくなります。
“苦手と言える空気”は、推し活を続けるためにも必要になる
推し活の場では、盛り上がりに水を差したくない、空気を悪くしたくないという気持ちから、違和感をのみ込んでしまうことがあります。でも、本当にしんどいのは、好きか嫌いかを表明することよりも、「嫌だと思ってはいけない」と感じ続けることかもしれません。
今回の話題は、一つのゲームの是非に結論を出すためのものではなく、私たちがどんな娯楽に惹かれ、どんな演出に消耗するのかを見直すきっかけとして受け取るのがよさそうです。推し活は本来、心を豊かにするためのものです。だからこそ、刺激の強いコンテンツにモヤモヤしたとき、自分の感覚を「考えすぎ」で処理しないことには意味があります。
作品を楽しむ自由もある。距離を置く自由もある。そして、そのあいだで言葉を探す自由もある。SNSでは極端な反応が目立ちますが、実際にはその中間にいる人が多いはずです。今回のモヤモヤもまた、自分の感情と他人の楽しみ方を切り分けながら考える練習として、無駄ではないはずです。
SNSでの議論は、作品批判がいつのまにか「楽しんでいる人」への人格批判に変わりやすいです。違和感を共有するときほど、対象を広げすぎず、「自分はこう感じた」という主語を保つほうが、対話は崩れにくくなります。
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